シーシェパードは人間のエゴそのもの
ある特定の動物に対して過剰な擁護をするのは、
愛護というよりは、人のエゴです。
前回(動物を飼うのは人間のエゴなのか)の続きです。
まぁ、シーシェパードに限った話ではないのですが、
ここではシーシェパードを例に挙げます。
その後、動物愛誤について話します。
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シーシェパードとは
簡単に言うと、クジラ、イルカ、サメなどの海洋生物が大好きな人たちです。
特にクジラ、イルカ漁に関しては日本がターゲットにされることが多いので、
日本人なら知っている人は少なくないかもしれません。
ただ抗議するだけでなく、船で体当たりを仕掛けるなど、
過激な行動を起こすため、彼らのことをテロリストや海賊扱いとする国もあります。
なぜシーシェパードは人間のエゴそのものなのか
そもそも、クジラ、イルカ、サメなど、
特定の動物に限った見方が独善的だからです。
テロに等しい過激な活動家かどうかはここでは関係ありません。
彼らはイルカやクジラの肉は食べないはずですが、
おそらく所属している人、支持している人のほとんどが
豚、牛、鳥などの肉を食べていることは想像に容易いことです。
常識のある人なら、この時点で何か違和感を感じますよね。
他の動物の肉は平気で食べるくせに、
なんでイルカやクジラはダメなの?って。
イルカやクジラだけが特別な理由は、彼らなりに何かあるでしょう。
でも、それがいかなる理由であっても、
それはまさに人間のエゴ(わがまま)以外の何物でもありません。
豚は良くてもクジラはダメ、
と一部の人が勝手に決めたわけですから、当然ですよね。
これを彼らが愛護精神と思っているなら甚だしい勘違いであり、
非常にタチの悪いエゴ、矛盾であるわけです。
人間は例外なく誰でも自分勝手で残酷
タチの悪い「人のエゴ」が当てはまるのは
シーシェパードだけではありません。
人間がいかに地球上で人間本位に生きているかを
考え方ことがある人なら分かると思いますが、
動物に対する生半可な愛護精神は、偽善でしかないのです。
シーシェパードの例でも書きましたが、
私たちは豚、牛、鶏、魚など、普段から肉を食べて生活しています。
「あ、この肉すごくおいしい!」
とかなんとか言って。
生きるために動物性たんぱく質が必要だから嫌々ながら食べてる、
という人はほとんどいないんじゃないでしょうか。
人は弱肉強食のピラミッドの圧倒的な頂点ですから、
こんなことも平然と許されていますわけですが・・・。
肉を食べることがあまりに日常的すぎて、
牛や豚が「かわいそう」と思うことなんてほとんどありませんよね。
少し考えれば、これがいかに残酷で恐ろしいことか分かります。
でも、考えても仕方のないことだし、
「生きるために仕方ないよね、豚さんごめんなさい」と勝手に理解しているか、
そもそも豚がかわいそうなんて思ったことがない人もいるでしょう。
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それを踏まえた上で・・・
こんな人間に、ある特定の動物のことを
「かわいそう」なんて言う資格があるんでしょうか。
少なくとも私は、まったく無いと思っています。
私は、人は自分も含めていかに自分勝手な存在か、
ということを自覚しつつ肉は食べてます。
そして、
食べている以上、安易に「○○がかわいそう」などと
思わないことにしています。
肉は喜んで食べるくせに、他の動物の身を
案じるような矛盾したタチの悪いエゴを抱えたくはないからです。
動物愛誤or愛護?
私は以前、ウサギやキツネなどのリアルファー
(ラビットファーやフォックスファー)について
書いているブログを見たことがあります。
そこには、
「みなさんはリアルファーを作るために、
ウサギやキツネが、生きたまま皮を剥がれていることを知っていますか?」
というようなことが書いてありました。
「人間の勝手でこんな残酷なことをしているんです、
ウサギやキツネがかわいそうです、みなさん、買わないでください」、
とリアルファーの不買運動を持ちかけていました。
私はファーには興味がなかったので、その時は
「確かにかわいそうだなぁ、ファーなんて人工ものでいいんじゃないかなぁ」
程度にしか思いませんでした。
でも・・・
先日、たまたまテレビで魚、イカ、貝などが
職人に料理されるところを見たんですが・・・。
考えてみれば、生きたまま捌かれてるなんですよね。。
職人は当然いやな顔をしながら調理するわけじゃないし、
おいしそうな海鮮料理が出てきて、TVの出演者もおいしそうに食べてました。
「ホントにおいしいですね!」
とかいいながら・・・。
これも考えてみればかなり残酷で恐ろしい話です。
生きたまま目の前で魚が捌かれたのに、
喜んでそれを食べるわけですから!
ここでふと思ったわけです。
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ファーの不買運動してた人も、魚食べてるんじゃないかなぁ、って。
- ウサギはダメで、魚はOK?
- 魚は生きるために必要だけど、ファーはただの嗜好品だからダメ?
どっちもやっぱり人間のエゴなんですよね。
前者はいわずもがなですが、
後者だとしても、人は魚を食べずに生きることはできるはずなので、
正当な理由にはなりません。
もちろん、その人の中では「生きるためには必要!」で完結すること
なのかもしれませんが、説得力がありません。
結局、動物の肉を食べてる人って、
そのことを追及されたら答えようがないと思うんです。
動物を大切にしたいけど、一方で動物を残酷に食している、
ここには大きな矛盾があります。
私自身、ウサギが犠牲になるのはかわいそうだと思うし、
かといって、魚にも同じ感情を抱くかと言われれば・・・。
正直な話、Noです。
この感じ方の違いこそ、人間の身勝手さの表れでしょう。
真の意味で動物愛護を訴えられる人
結局、真の意味で動物愛護を訴えられる人、
訴える資格のある人というか、説得力のある人って・・・。
ベジタリアンの人しかいないと思いませんか。
「ウサギがかわいそうだからファーを使うことにも反対、
豚や魚がかわいそうだから肉を食べることにも反対、
だから私は肉は一切食べません。」
ここまできたらその人の動物愛護精神は本物だと思います。
動物を無残に食し、「おいしい!」などといっている矛盾が
そこにはないわけですから。
まとめ
結局何が言いたいかというと、
残酷な方法で動物を殺したあげく、
多くの人間はそれを食文化といって美味しくいただいている以上、
他の動物に関して幸か不幸か、
軽々しく語る資格はないんじゃないか、ってことです。
それでも、人間によって一定の生態系が著しく変化し、
地球全体の問題になるかもしれないことについて
動物愛護団体などが口うるさく言うのだとしたら、
それは一定の説得力があります。
でも、倫理的な観点から言及するのであれば、
それは偽善ごとでしかないことを理解すべきです。
(ちなみに、動物愛護法において、動物実験は認められています)
もちろん、虐待などは認められるべきことだとは思いませんが、
ファーにしても食肉にしても、一般的に
人間にとって需要があるものであれば、そこにはどうしても矛盾が生じます。
「やめませんか?」という形で訴える程度であればまだしも、
捕鯨の例のように、あたかも悪いことをしているかのように非難するのは、
矛盾を超えた、自覚がない分最悪なエゴです。
知能のある人間として生まれた以上、
そのぐらいの自覚は持つべきではないでしょうか。
シーシェパードや過剰な動物愛護活動や発言を見ると、
そのように感じてしまうのです。
追記
コメントにて指摘を受けましたが、
ベジタリアン(動物を食さない人)なら愛護を訴えても良い、という
私の考えも人間のエゴでした。
植物は脳や痛覚がないから摘んでも(殺しても)良い、というのは
やはり人間の勝手な考えですからね。
多かれ少なかれ、人間は誰しもが動植物の犠牲の上で成り立っているので、
それを考えると、結局どんな愛護の訴えも偽善ごとと言えるかもしれません。
極論すぎる、といわれればそれまでかもしれません。
でも、クジラの肉やウサギの毛皮など、特別な事例だけ見るのではなく、
普段私たちが当たり前に生活していく上で消費している物たちのルーツを
もう一度振り返ってみるべきかもしれません。
感動しました。
ですが、ベジタリアンの人も愛護を言う資格はないと思います。
彼らの食べてる野菜を育てる畑を作るのにどれだけ多くの自然を犠牲にしてるのかも付け加えてください。
それに野菜(植物)も生き物です。動物愛護を訴えても植物はなにしてもOKじゃあ、それは植物への差別です。
コメントありがとうございます。
個人的には、植物には脳や痛覚もないので動物とは別と考えていました。
ですが、菊池さんのコメントを見て気づきましたが、
その考え自体が人間のエゴでした。
人間は生きるために他の動植物の犠牲の上でしか
成り立たないということを再認識しなければなりませんね。
極論、人は生きているだけで多くの自然にとって迷惑になっているわけですから、
愛護を訴えたければまず自分が死ぬべきということになります。
しかし、人間も生きなければなりませんから、そこで矛盾が生じます。
そう考えるとやはり愛護は偽善(エゴ)でしかないことになるので、
余計な訴えなどせず、粛々と生きるべきですね。
イルカやクジラを保護しようとする人間もいれば、ウサギをかわいいと思う人間もいれば、豚や魚に食用以外の価値観を見出だす人間もいます。
シーシェパードの様なテロ紛いの行為はハタ迷惑なだけですが、個人の価値観はそれぞれ。
何を護りたいかも人それぞれです。
群れから離れたイルカを保護したい。行き場のない犬猫を助けたい。結構な事です。
そもそも愛護精神を持つならば全ての動植物に平等にすべきなどと言う前提がおかしいです。
そんなものはただの御託や綺麗事です。
神や仏じゃあるまいし、人間が全ての動植物を護れるわけがありません。勘違いにも程があります。
人間はエゴの塊です。人間は動物です。
理性を持とうが、知恵を得ようが、知識を増やそうが、本能が残っている限り、そこから逃れることは出来ません。
それぞれの価値観に基づき行動し、時にそれぞれの価値観を広め、その価値観に賛同した者が、またその価値観に従うのです。
それが人間です。
直接迷惑でもかけられていない限り、エゴだから偽善だからと言って他人がとやかく口を出すことではありません。
それこそ只のワガママです。
特定の種族だけを愛護するのが偽善だとしたら、、、
牛や豚を平気で食べるくせに犬や猫は可哀想だから食べずに愛護してる日本人も、シーシェパード同様かも
犬猫の殺処分が可哀想だから飼い主を批判してる人は沢山いますし、私だって飼い主が無責任だと思います
でもそれが「人間の身勝手で命を使い捨てる」ことへの批判だとしたら
日本中の飲食店で毎日大量に売れ残って廃棄処分されてる牛や豚の命も同じくらい可哀想です
野菜サラダに使われる植物も毎日大量生産大量処分で使い捨てにされてます
犬猫の命を使い捨てると怒るのに食用の動植物の命を使い捨てても怒らないのはちょっと変な気がします
「動植物の血肉を喰らって生きてる以上は安易に動物を愛護すべきじゃない」としたら
日本を含む全ての先進国のペット文化自体が根本的に消滅するんじゃないですかね?
なんせ大抵の先進国じゃ牛豚を毎日平然と殺しながら犬猫を毎日頑張って愛護してますから、、、
私も動物愛護団体などは嫌悪の対象としている人間ですが、
人間がほかの特定の種を愛護と主張しているのは自己矛盾をはらんでいるとするなら、
人間が人間を殺すのはだめですか?だめだとしたら、それはなぜなのでしょうか。
種の存続という反論がまっさきに浮かびましたが、生命の一個体は種の存続を考えて行動するのが正しいというわけではありませんよね。
コメントありがとうございます!
なかなか難しい質問ですね。
答えとはいえないかもしれませんが、私が思ったのは、
人間が人間を殺す場合の大半の理由は、
「憎いから」「邪魔だから」「ストレス解消」というような理由であり、
必ずしも「生きるために絶対的に必要な行動」ではないという点についてです。
ヒト以外の動物は、基本的に種の存続や自身の生存本能のために
他の動物を殺すので、その点に大きな違いがあると感じています。
つまり、人間が人間を殺すのも、人間特有のエゴといえるのではないでしょうか。
(社会全体が餓死寸前、紛争状態など、特別な環境は除きますが)
そのようなエゴで他者の命を奪って良いわけはないので、
倫理的にも法律的にも殺人はタブーであり、
「殺人禁止」に自己矛盾の可能性は低いと私は考えます。
ただ、資本主義国家は、殺しはしないにしても弱肉強食の世界なので、
生まれながらにして金持ちは金と貧乏人を使ってさらに金を稼ぎ、
それ以外の多くは使われる身で一生を終えるしかなく、
ただその一方で、弱者救済のシステムも肯定されています。
これには多少の自己矛盾を孕んでいると言っても
間違いではないように感じます。
実際には、奴隷レベルでない限りは使われる身であっても
幸せに一生を終えることはできるので、程度の問題といえるでしょうが・・・。